御 由 緒
・陸奥国の神社の多くは、古代蝦夷の反乱と深い関係をもっている。東国の国魂神
を奉斎した氏族は、蝦夷平定の一翼を担っていたと考えられる。7世紀から9世紀
にかけて、陸奥の神社が、律令国の官社に編入されていったのは、そのような事情
による。社伝によれば、大同2年(807年)に大国魂神社を再建したとある。おそらく
「続日本紀」の載せる「陸奥国磐城郡大領磐城臣雄公」を族長とする人々が、この
事業にたずさわっていたことであろう。その後、鎌倉〜南北朝期には、岩城国魂が
地頭として社殿の維持にあたっており、やがて大永2年(1522年)に至り、大館城主
岩城由隆によって大造営が行われた。以来、領主による社殿の修復が重ねられた。
・国魂とは、国々に宿る霊力であり、国土の平和と繁栄は、この神威の加護によると
される。古代から、国人(クニビト)は国内(クニウチ)の領地「高山(タカヤマ)のいほり、短山
(ヒキヤマ)のいほり」の森に、国魂の神生(ミアレ)を渇仰(カツゴウ)し、神座(カミクラ)を定めて
祭り続けてきた。かつて石城国は、豊間浜より高久を経て、夏井川下流域におよぶ
領地を中心部として展開していた。この海川山野の要にあたる現社地は、国魂山と
呼ばれていた。国魂神を奉斎する者は、その国の大族長たる国造(クニノミヤツコ)であった
という。石城国造は「建許呂命(タケコロオノミコト)」の一族と伝えられる。国魂山の真東に
鎮まる「かぶと塚」は、この国造の墳丘であるといわれている。
〜 大国魂神社栞より 〜
御 祭 神
○大己貴神(オオナムチノカミ)、 ○事代主神(コトシロヌシノカミ)、 ○少彦名神(スクナヒコナノカミ)
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● 本 殿 ●