ご 由 緒
・浄法寺城跡に祭られる神明社、以前は地名になった八幡神社があったとされ
る。浄法寺氏は鎌倉御家人畠山氏の庶流とされるが、浄法寺入部のの時期等
は不明である。一説には元久2年(1205年)畠山重忠と嫡子・重保と重秀が鎌
倉幕府に対し謀反を企てたという、北条義時の策略によって誅殺され、その
時に武蔵国慈院二十九世別であった三男の畠山小次郎重慶は、奥州に逃れ、
還俗して重慶と名乗り浄法寺氏の祖になったという。また、奥州の藤原攻め
で軍功のあった畠山重忠の弟の重宗に、二戸郡があてがわれ、その後、重宗
の嫡子が早世し嗣子がなかったため、鎌倉の浄法寺で出家していた重慶が還
俗し、重宗の跡目を継いだとする説もある。いずれにしろ、鎌倉初期、安比
川流域に進出した畠山氏は浄法寺氏と称し勢力を拡大してゆく。室町期にな
ると、三戸南部氏とも関係を持つ勢力に成長する。天正20年「南部大膳太夫
分国之内諸城破却令」で浄法寺城は破却。その後、和賀兵乱での処分により
浄法寺氏は断絶する。
・御祭神は不明。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
● 本 殿 ●
● 境 内 社 ●