御 由 緒
・氷川神社の創建は諸説あり、社伝では今から二千有余年前、第5代孝昭天皇(コウショウテンノウ)
の御代3年4月未の日の創立とされる。また、第12代景行天皇(ケイコウテンノウ)の御代に日本
武尊(ヤナトタケルノミコト)が東夷鎮圧の折に須佐之男命(スサノオノミコト)を勧請したとする。別伝では
第13代成務天皇(セイムテンノウ)の御代、出雲族の兄多毛比命(エタモヒノミコト)が朝命により武蔵国造
(ムサシノクニミヤツコ:夭邪志国造)となり、出雲国の簸川(ヒカワ:肥川、斐伊川)の川上に鎮座する
杵築大社(キズキノオオヤシロ=出雲大社)を勧請し奉崇したのが始まりで、氷川の神号はその川
の名前にちなんで名付けられたとする。後の第45代聖武天皇(ショウムテンノウ)の御代になると
「武蔵国一の宮」と定められ、第60代醍醐天皇(ダイゴテンノウ)の御代に制定された延喜式神
名帳には名神大社として、月次・新嘗の祭りに案上の官幣に預り、また臨時祭にも奉幣
に預っている。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し
奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われてた。明治元年には
武蔵国の鎮守・勅祭の社となり、明治4年には官幣大社に列せられる。
御 祭 神
○ 須 佐 之 男 命 (スサノオノミコト)、 ○ 大 己 貴 命 (オオナムチノミコト)
○ 奇 稲 田 姫 命 (クシナダヒメ:櫛名田比売)
・祭神については江戸時代までは、男躰社である氷川神社に須佐之男命を、女躰社である
氷川女体神社(緑区宮本2-17-1)に奇稲田姫命を、奥の簸王子社(ヒオウジシャ)である中山神社
(見沼区中川145-65)に大己貴命というように、別々の社殿に祭っていたが、明治維新の
神仏分離で氷川女体神社が衰退し、氷川神社が政府の保護で三社を統合して、今日では
同じ社殿に祭られている。
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● 門客人神社と御嶽神社 ●
● 宗 像 神 社 ●