沖 縄 ・ 久 高 島くだかじま 
知念岬公園

・久高島(クダカジマ)は沖縄本島知念岬の東海上5.3kmに浮かぶ、周囲7.8km、所在人口は約200

 人の細長い島で、島の北側は神の領域とされ、集落は南端のわずかな所に集中している。

 久高島には琉球の祖神アマミキヨが初めて降り立ったとされ、また、五穀が初めてもたら

 された場所として、数多くの神話が祭りの中で伝えられている。           

久高島
 沖縄県南城市知念久高 地図

 久高島公式HPへ


イシキ泊入口 アガリウプヌシの御嶽

・島の中ほどにあるニライカナイ(ニラーハラー)の神・アガリウプヌシ(東大主)の御嶽(ウタキ)である

 イシキ泊(伊敷泊/イシキドマリ)の入口。その先には、五穀が入った壷が流れてきて、それから 

 久高島、沖縄本島へと穀物が広まったとされる五穀発祥(琉球国由来記)の地、イシキ浜が 

 ある。・・・島の伝承によれば、流れ着いたのは壷ではなく瓢箪であり、それをアカッチュミ

 とシマリバという名の夫婦が拾ったともいう・・・。また、ここはニライカナイに面する浜と

 して、ウプヌシガナシー(健康祈願)の祭祀がされる重要な場所であり、年始には男子一人 

 につき伊敷浜の石を三個拾い、お守りとして家に置き、年末に浜に戻す儀式がある。   

イシキ浜



イシキ浜

・写真中央は、イシキ浜の奇岩の上に、何者かがシンボルのようなものをコンクリートで固 

 め立てたものである。琉球神話の聖地である神の島、無形文化の祭祀の場所として大切さ 

 れている場所を、破壊してゆく者たちから守るためには、この場所も、そしていつか久高 

 島にも立ち入ることが出来なくなるだろうと島の人は話していた。           

イシキ浜 イシキ浜

・この島ではノロを頂点とした祭祀組織によってイザイホーや数多くの年中行事を行ってき 

 ました。ノロ制度は第二尚氏(ダイニショウシ)の時代(約4〜5百年前に確立)、久高島に入ってき

 たといわれます。それ以後、久高島は王府によって特別な地位が与えられました。、納税 

 は免除、そして国王も危険を冒してまで毎年この島を訪れました。そして、琉球王国の祭 

 のトップ聞得大君(キコエノオオキミ)は久高島の外間ノロによって霊力が与えられ就任しました。 

 王府は久高島を神の島として崇めることによって国を治めようとしたのでしょう。この島 

 は神の島であるべく数多くの祭りを行い、祈りの生活を送ってきました。その間、この島 

 の歴史は琉球王府の都合に合うように作り替えられたかもしれません。そのためノロ制度 

 以前の久高島がどのような島であったのかは明確ではありません。しかし、王府が尊重し 

 崇めるほどのものであったことは間違いありません。きっと、自然や祖先への祈りと感謝 

 家族の無事と健康を願うというシンプルで力強いものだったのでしょう。        

                               〜久高島HPより〜    

 ※ノロ(ヌール)とは、神女、巫女、神に仕える女性。世襲制で数集落の祭祀を司る中心的 

  な役割を果たし、また、公的な祭祀の祈願をする神官。琉球王府時代になると任命制に 

  なり、首里中央から地方まで整然たる組織として運用されていた。ヌールは公的な巫女 

  であり、一方のユタは民間の巫女である。ユタには男ユタもいる。          

 ※イザイホーはこの島で12年に一度(午年)に行われる、島で生まれ育った30歳から41歳ま 

  での女性が、祖母の霊力(セジ)を受け継ぎ、島の祭祀組織に加入する為に行う成巫式。 

    現在は、1978年を最後に行われていない。                     

 ※聞得大君とは、琉球王国の第二尚氏時代の最高神女。1470年に即位した、尚円王の王女 

  が初めて大君に任命されて以来、王女、王妃、王母などの王族の女性が代々その職につ 

  き、明治12年(1879年)の首里城明け渡しに至るまで存続した。その任務は国の重要な祭 

  祀を通し、国王の長寿・国の繁栄・五穀の豊穣・航海の安全を祈願することであった。 


久高島 フボー御嶽入口

・写真右のフボー御嶽(うぽうがみ)は、アマミキヨ(阿摩美久/琉球創世女神)琉球開闢七御嶽

 の一つで、久高島のみならず沖縄でも最高の霊地とされる場所で、男子禁制の聖地であり 

 今でもヨーカビー(お祓い)、ピーマティー(火の神の祭)、ハマシーグ(害虫祓い)など多く 

 の祭祀がここを舞台に執り行われている。現在は男女を問わず全面的に立ち入り禁止にな 

 っているが、入口から少し入った、足元に大きな石があるこの場所からは拝することがで 

 きる。                                      
久高島

・久高島の北東の最先端は、琉球神話でアマミキヨ(祖神アマミク)が初めて降り立ったとい 

 われるカベール岬がある。壬の日には神がこの岬に白馬の姿で降り立ち、そのまま島の周 

 りを巡視して帰っていくといわれていて、その馬を見るのはなぜか縁起が良くないといわ 

 れていいる。また、旧暦の2月、ヒータチ(豊漁祈願)をする神聖な場所の一つでもある。 

カベール岬



カベール岬



カベール岬へと続く白い一本道



ニライカナイ橋より

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世 界 文 化 遺 産

 斎 場 御 嶽せーはぁうたき 

斎場御嶽
 沖縄県南城市知念字久手堅地内 地図

・御嶽とは「聖地」の総称で、斎場とは「最高位」を意味し、斎場御嶽とは琉球開闢伝説に

 もあらわれる琉球王国最高の聖地(御嶽)で、正式には「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」といいま

 す。御嶽の中には六つのイビ(神域)がありますが、中でも大庫理(ウフグーイ)、寄満(ユインチ)、

 三庫理(サングーイ)はいずれも首里城内にある部屋と同じ名前をもっています。当時の首里城

 と斎場御嶽との深い関わりを示すものでしょう。                  

・はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には、聖なる白砂を神の島といわれる久高島より

 運び入れ、それを御嶽全体に敷きつめました。その中でも、最も大きな行事が、聞得大君

 (キコエオオキミ)の就任式である「御新下り(オアラオリ)」でした。斎場御嶽は、琉球国王や聞得大君

 の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り(アガリウマーイ)」の参拝地として、現在も多

 くの人々から崇拝されています。                         
                           〜 斎場御嶽のしおり 〜   
大庫理

・御門口(ウジョウグチ)から登っていくと、左手に見える最初の拝所が大庫理(ウフグーイ)

 で、大広間や一番座という意味があり、前面には磚(セン/瓦のような板状の石)の敷かれた 

 祈りの場(ウナー)がある。                            

 ※御門口とは御嶽(ウタキ)に入る参道の入口のこと。本来御嶽は男子禁制であり、これ以上 

  先には進むことはできませんでした。それは国王であっても例外ではなく、どうしても

  国王がこの先に進むときには、着物の合わせ目を女装と同じようにしてから奥に進んだ

  といわれている。                               


三庫裏

・写真中央に岩壁から垂れ下がった二本の鍾乳石がある。その鍾乳石から滴り落ちる水は、

 その下に置かれた壷(かつては黄金だったという)に受けられ霊水とされた。霊水は聞得大

 君の御水撫で(ウブナディ)の儀式に使われたり、若水とりの儀式にも使われ、また、壷に

 たまる水の量で、その年の豊凶をも占ったとされている。奥側の壺の上の鍾乳石をシキヨ

 ダユルアマガヌピー(しきよたる雨か美御水)、参道側の鍾乳石をアマダユルアシカヌピー

 (雨たゆるあしかの美御水)という。そして、壺の置かれている場所は「チイタイイシ」と

 呼ばれる拝所である。                              

三庫裏



三庫裏

・自然が形作った神秘の三角形の通路を進むと、正面に三庫裏(サングーイ)、そして最も

 格の高い拝所が、右側の巨岩のチョウノハナ(京のはな)で、クバの木を伝って琉球の創世

 神であるアマミク(アマミキヨ)が降臨するとされている。かつての三庫理は、三方が岩壁
  三庫理の勾玉

  に囲まれた空間だったが、近世になって岩壁の一角が崩

  れたことにより、王国開闢にまつわる最高聖地とされて

  いる久高島を遥拝することができるようになった。  

 ・1999年10月、三庫理の敷石の下から、納められた黄金の

  勾玉等が出土した。                
久高島遥拝所

 ・琉球王国の絶対的な存在である国王はまさに太陽であり、その太陽のあがる方角にある 

 久高島は、東方楽土ニライカナイへの「お通し(遥拝)」所として沖縄各地で崇拝されてい

 る。琉球王国時代の久高島遥拝所は、御門口下方にあったが、いつしかこの場所が遥拝所

 として定着したことを受け保護している。       〜 久高島遥拝所 〜      



斎場御嶽



寄満

・斎場御嶽で一番奥にあたる拝所が寄満(ユインチ)である。寄満とは首里城内にある建物 

 の名前で、国王のために食事を作る厨房を指し、国内外から海の幸、山の幸が集まった 

 ことから、「豊穣の寄り満つる所」と理解されていた。同じ名前のこの場所には、第二 

 次世界大戦前まで、その年の吉凶を占う、馬の形をした石(ウマグヮーイシ)が置かれて 

 いた。                                     


寄満


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 ひ め ゆ り の 塔 

ガジュマルの木
 沖縄県糸満市伊原671-1 地図



ひめゆりの塔

・ひめゆりの塔は、沖縄戦末期の激しい戦闘でほぼ全滅した沖縄陸軍病院第三外科壕の跡 

 に立つ慰霊碑(塔と納骨堂)である。2009年6月、改修工事を進めていた慰霊碑(納骨堂)が

 完成した。老朽化したコンクリート部分を大理石にして耐久性を高め、ゆりのレリーフ 

 はブロンズで制作され、刻銘板には建立後新たに判明した18人の戦没者を加えた227人が

 刻銘された。写真右側が高さ70〜80cmのひめゆりの塔、塔と慰霊碑の間に口を空けてい 

 る竪穴が第三外科壕への出入口である。                      

 ※沖縄の防空壕は、沖縄特有の自然洞窟を利用した防空・避難壕で壕(ガマ)という。  

ひめゆりの塔

・1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計

 240名(教師18名と生徒222)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。 

 しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃に

 は、山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病

 院そのものが、回復の見込みのない負傷兵や学徒を置き去りにして、南部の伊原や山城 

 周辺に撤退し分散して地下壕に潜んだ。戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散

 を命じられる。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、周辺は既に 

 激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。   

                        〜 Wikipedia ひめゆりの塔 〜   

第三外科壕

・第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕 

 から脱出したが、これらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。そして最も 

 被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの 

 攻撃を受け、壕にいた96名のうち87名が死亡した。さらに壕の生存者9名のうち4名は壕 

 脱出後に死亡した。従い、第三外科壕にいたひめゆり学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き 

 残ったのはわずかに生徒5名のみであった。                    

敷地内の慰霊碑

・ひめゆり学徒隊以外にも、白梅学徒隊、積徳学徒隊、なごらん(名護蘭)、梯梧(デイゴ)学

 徒隊、そして引率する教師もなく最も早く最前線に送られた、ずいせん(瑞泉)学徒隊も 

 ほぼ同様の運命をたどり、それぞれの地に慰霊碑が建てられている。         

・写真は敷地内の慰霊碑で、隣地にも複数の慰霊碑や塔が建てられている。       



ひめゆり平和祈念資料館

・第三外科壕は終戦後、犠牲により亡くなった生徒の親である金城和信さん等によって発

 見される。その後アメリカ軍により、この地に住むことを命じられた真和志(マワシ:現在

 は那覇市)村の人たちによって遺骨が集められ、ひめゆりの慰霊碑が建てられた。   


 ひめゆり平和祈念資料館



ひめゆり平和祈念資料館




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美ら海水族館 ジンベイザメ



エージマタッチュー
・伊江島:城山(グスクヤマ/タッチュー)、海抜172メートルの島唯一の山(岩山)で村民の守り神。



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