仙 台 八 坂 神 社 ・ 冠 川 神 社
仙台市宮城野区岩切字若宮前11-7 鎮 座
京都祇園 八坂神社へ
● 社 殿 ●
御 由 緒 ・文治5年(1189年)6月7日、高森城主・伊澤家景が京都の祇園から勧請する。始めは岩切 村・余目(アマルメ)の城内に鎮座し、圭田・二十石を納む。後に同村の台ヶ原頂上に座して天王 山と称す。戦国・天正の頃より社殿荒廃し祭事を欠くに至る。仙台藩主伊達政宗公、寛永 年中に天王山より現在の地に遷宮し、祭田二百文(二石)の地を寄進し厚く祭事を行う。 神仏混淆(シンブツコンコウ)の際より、祇園牛頭天王社(ギオンゴズテンノウシャ)と称したが、明治の初 め現社号に改め、明治6年に郷社に列し、大正3年12月幣帛供進社に指定された。 ・明治43年4月、各区内鎮守社を本社に合祀する。 ・例大祭は毎年8月1日。 [ 縁起・八坂神社蔵記録(合祀17社) ] ・小物忌神社(村社/羽黒前)、 ・諏訪神社(羽黒前)、 ・若宮八幡神社(羽黒前) ・天 神 社(羽黒前)、 ・三 社 宮(今市)、 ・矢崎神社(畑中)、 ・八幡神社(畑中) ・志賀神社(鶴ヶ谷)、 ・松木神社(燕沢)、 ・熊野神社(燕沢)、 ・神 明 社(堰下) ・諏訪神社(小鶴) 、 ・八幡神社(小鶴)、 ・八幡神社(雑社/小鶴) ・羽山神社(小鶴七反田)、 ・熊野神社(無挌社/新宿)、 ・雷 神 社(生沢) 御 祭 神 ○ 素 戔 鳴 尊 (スサノオノミコト)、 ○ 天 児 屋 根 命 (アメノコヤネノミコト) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
● 境 内 摂 社 ●
冠 川 神 社 ☆ 志 波 彦 神 社
御 由 緒 ・天正年間に縁起を焼失し沿革不詳なれども、本社は延喜式内明神大社志波彦神社で、いつ 頃よりか甚だしく衰微し、延宝3年(1675年)の再建には、堅石5尺・横6尺の小祠となり しかも摂社である天王社と並び立つ状態であった。明治4年5月14日官国幣社治定に当た り国幣中社に列せられたが、社地挾隘(キョウアイ)にして社殿造建不可なる理由により、明治 7年12月24日に鹽竈神社に遷宮された。明治10年3月31日官許を得て、志波彦神社分霊を 岩切村の旧社に奉遷し冠川神社と称し、国幣中社である陸奥国一ノ宮の志波彦神社・鹽竈 神社の摂社に指定された。 ・冠川神社の冠川とは、岐神が鎮座していた川の名前で、本来の神降川(カミフリガワ=神が降り た川)が、冠川と訛ったものであるという。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ [ 志波彦神社・鹽竈神社の参拝のしおり ] ・志波彦神社の御祭神は志波彦神で、『古事記』や『日本書紀』には出てきませんが、鹽竈 の神に御協力された神と伝えられ、国土開発・産業振興・農耕守護の神とて信仰されてい ます。 ・志波彦神社は、東山道より陸奥鎮守府を兼ねた多賀城国府に入る交通の要所の、陸奥国宮 城郡岩切村(現:仙台市宮城野区岩切)の冠川(現:七北田川)の畔に鎮座され、陸奥国延喜 式内社百座のうち名神大社として朝廷の厚い信仰がありました。明治4年5月国幣中社に 列格されましたが、境内も狭く満足な祭典を行うことが不可能な為に、明治天皇の御思召 により、明治7年12月24日、鹽竃神社の別宮に遷し祭られました。さらに、昭和7年国費 を以って御造営することになり、昭和9年に現社地に工事を起し、明治・大正・昭和三代 にわたる神社建築の粋を集め竣工し、昭和13年9月に遷座しました。 御 祭 神 ○ 神 産 霊 尊 (カミムスビノミコト)、 ● 大 勢 至 菩 薩 (ダイセイシボサツ) ☆☆☆☆☆ 大勢至菩薩 / マハースターマプラープタ 真言:オン サン ザン ザン サク ソワ カ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「 神 産 霊 尊 / 神 産 巣 日 神 」 ・宇宙の始まりの時点、天も地もなく混沌とし、まだこの世界の形がなかったころ、初めて 天と地、陰と陽がわかれ高天原が創造された。それと同時にその中心に現れたのが天之御 中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、そして神産巣日神(カムムスビノカミ)が 現れます。この三柱の神は、万物の創造を司る神として「造化三神(ゾウカサンジン)」と称さ れます。記紀神話では高御産巣日神が高天原の香久山(カグヤマ)にそびえる世界樹ともいう べき高木神(タカギノカミ)ともされ、高天原系の神話伝承に多く登場するのに対し、神産巣日 神は、須佐之男神や大国主神を中心とした出雲系の神話伝承に天神として数多く登場し、 地上の豊葦原中津国(トヨハシハラノナカツクニ)を支えます。その対称的な働きから、平田篤胤は高御 産巣日神を「父性的神」、神産巣日神を「母性的神」とみなしています。 ・『古事記』の須佐之男命(スサノオノミコト)の「穀神殺し(※1)」の物語では、須佐之男が高天原 を追放されて出雲の鳥髪山(トリカミヤマ)に降てくると、大宣都比売(オオゲツヒメ)があらわれ、鼻 や口、尻から食べ物を出して色々と調理して捧げました。しかし、須佐之男命はそれらを 穢(キタナ)いといって、大宣都比売を切り殺してしまいます。その死体からは、蚕や稲、粟 や小豆、麦や大豆が生じました。神産巣日御祖命(カンムスビノミオヤノミコト)は、これらを採らせて 人々に与えたのでした。このように神産巣日神には、人々に五穀を分け与える太母神の側 面があります。 ※1 日本書紀では、天照大御神の命により、月夜見尊(月読命)が保食神(ウケモチノカミ)に 対面したとき、保食神が饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「汚ら わしい」と怒り保食神を切り殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲 などが生れ穀物の起源となった。天照大神は月夜見の凶行を知って「汝悪しき 神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住む(日月分離の神 話)ようになったという。 ・神産巣日神は死と再生を司る神でもあります。『古事記』には、大国主命(オオクニヌシノミコト)が 異母兄弟の八十神(ヤソガミ:多くの神)に謀殺され、蘇(ヨミガエ)る物語があります。八十神た ちは、稲羽(イナバ)の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚しますが、ことごとく断られてしまいます。 しかし大国主命は、助けた因幡の白兎の知恵を授かり、八上比売の心を射止めるのです。 これに怒った八十神たちは、「山の赤い猪を追いおとすから、つかまえろ」といい、大石を 真っ赤に焼いて落とします。待っていた大国主命はその焼石で焼けただれて死んでしまい ました。大国主命の母の刺国若姫(サシクニワカヒメ)は嘆き、神産巣日神に助けを乞うと、蚶貝比 売命(サキガイヒメノミコト)、蛤貝比売命(ウムガイヒメノミコト)という貝の精をつかわし、大国主命を作り 活かしました。 ・神産巣日神は薬や医療や、疫病や災厄を避ける禁厭(キンエン=まじない)をもたらすものなど を助けました。『古事記』によれば、大国主命が美保の岬で悩んでいると、海の彼方から 不思議な天乃羅摩船(アメノカガミノフメ)が漂ってきました。「かがみ」とは、夏の山野に薄紫の花 をつけ、秋に砲弾形の実をつける「ガガイモ」のことで、この小さな実を二つに割って造っ た船には、鵝(ヒムシ:蛾)の皮を内剥(ウチハ)ぎにした衣服を着た小さな神がいました。その神 の名が分らないので、ヒキガエルの久延毘古(クエビコ)にたずねると、神産巣日神の御子の 少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)と教えました。そこで大国主命が神におうかがいをたてますと 神産巣日神は「自分の子の一人だが、いたずら者で指の間からこぼれ落ちた」と答えまし た。やがて少名毘古那神は、医薬や温泉治療、禁厭などを開発し、大国主命とともに国作 りをしたのでした。 ・神産巣日神が食物と調理の火の神でもあることが、大国主命が国譲りを決意したとき、高 天原から攻め降りてきた天鳥船神(アメノトリフネノカミ)が、多芸志(タギシ)の小浜に天之御舎(アメノミア ラカ)を建て、御馳走を捧げたという物語にあらわれます。その料理の容器や、火を鑽(キ)り 出す臼と杵を調えた櫛八玉神(クシヤタマノカミ)の歌謡には、「このわが燧(キ)れる火は、高天の原 に神産巣日御祖神の、十足る天の新巣(トダルアマノイス)の凝烟(スス)の、八拳垂(ヤツカタ)るまで焼 (タ)き挙げ・・・」と歌われ、続いて料理に使う海藻や魚介が歌われます。ここでは、神産巣 日神は高天原に家屋が建てられたときのように、その家に連綿と絶えることなく、煤(スス) が長く垂れるほど、永遠に灯し伝えられる神火を守る神とされているのです。 ・神産巣日神は日本で初めて祖霊を祀る出雲大社を造営しました。『古事記』では、大国主 命が天津神へ国譲りするにあたって、「高天原の統治者が住むような、岩盤の上に太い柱 を立て、高天原に届くほど高い千木(チギ)をそなえた宮殿を建てて国を治めてくれるなら そこに隠れる(霊威は発揮するということ)」という条件を出します。神魂命(カミムスビノミコト) は、高天原から天御鳥命(アメノミトリモコト)を楯部(タテベ)として派遣し、「大神の宮の御装束(ミヨソ ホヒ)の楯を造り始め給ふ所、これなり」というように、大国主命の宮を飾るために盾(聖所 の結界にそなえた呪具)をつくらせたといいます。「出雲国風土記」には、神産巣日神が 自ら指示して出雲の神々を召集し、宮殿の建築を進めたとあり、そのとき新宮殿のモデル にしたのが自分の住んでいる天上の宮殿だったといいます。 [参考] ISIS本座 高橋秀元氏「バジラな神々」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
● 愛 宕 神 社 ●