敷玉早御玉神社の御由緒
・第12代景行天皇(ケイコウテンノウ)の12年(83年)、第3皇子日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、東征
途中、相模(サガミ)から海を渡って上総(カズサ)に入ろうとしたが、大嵐の難に遭い
荒れ狂う海で、后(キサキ)の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が、海神の怒りを鎮めんと海中に身
を投じ、尊が無事に相模灘を渡れたことへに思いをいたし、慰霊の思召しにより
海神である二柱の神を祀り建立された神社で、延喜式神名帳(905年)に名神小社
として登載されている延喜式内社である。
・宝亀11年(780年)、大納言・藤原小黒丸により、戦勝を感謝し社殿を再建立したが
天正(テンショウ)年中の兵乱により若宮八幡神社とともに焼失し、以後社殿の建立が
なく「敷玉森」としてその名を止めていたが、その滅失を憂い文政元年(1818年)
別当第40代・渋谷秀盛が、社名と延喜を刻し石碑を建立した。現在は敷玉社本殿
に奉斎され、若宮八幡社と同時に祭祀がおこなわれている。また、敷玉早御玉神
社が奉斎されてあったことが、この地に若宮八幡神社を創建奉斎される動機とな
ったと伝えられている。所謂この地の先覚神ともいえる。
・明治5年(1872年)郷社に列し、明治38年(1905年)に社殿再建立の計画を願い出た
が実現できなかった。昭和18年(1943年)には若宮八幡神社に合祀されてあったが
歴史現在社の消滅する事を憂い、平成3年(1991年)、今上天皇御即位の佳年を機
に再び分祀摂社として奉斎、光輝ある歴史を永劫に伝えることにした。
敷玉早御玉神社の御祭神
○ 豊 玉 姫 命 (トヨタマヒメノミコト)、 ○ 玉 依 姫 命 (タマヨリヒメノミコト)
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[ 祭 日 ] ・春季例祭 旧4月15日、 ・秋季例祭 旧9月19日
なお旧9月18日は特殊神事「湯花神事」が行われる。
若宮八幡神社の御由緒
に再び分祀摂社として奉斎、光輝ある歴史を永劫に伝えることにした。
・御鳥羽天皇(ゴトバテンノウ)の文治5年(1189年)、鎮守府将軍右大将・源頼朝(ミナモトノヨリ
トモ)公、奥州の藤原泰衡(フジワラノヤスヒラ)を平定し、凱旋の折りに敷玉早御玉神社の
近地内を清め、鎌倉八幡宮の御分霊を奉斎し、奥羽鎮護の神として創建された。
社殿の建立は、畠山重忠と武田太郎の両武将監督のもとに進められた。創建当時
の社殿は7間4面・布目瓦葺の社殿で最も荘厳を極めたという。また、別当には
奥州平定に参加した渋谷荘司重国の子、渋谷三郎時国を剃髪せしめ名を宥全と改
め別当寺を建立し、亀谷山隠城寺と号称、世襲別当として今日に至る。
・天正16年(1588年)、当社別当第21代・渋谷永豊の時代、伊達正宗が大崎氏を攻め
るに当たり、その兵燹(ヘイセン)にかかり、社殿、別当寺、僧房が悉(コトゴト)く灰燼
(カイジン)となり一時は祭祀も途絶えたこともあったが、兵乱が治まり世が太平に
及び社殿を再建立、別当も復職し祭祀を再興し、社領(旧村10ケ村)も定まり旧に
復することができた。寛政13年(1801年)別当37代・渋谷瑞芳のときに先の小社殿
を改建、更に別当41代・渋谷長盛にいたり安政2年(1855年)9月19日、現社殿落
成遷座の盛儀を斎行し今日に及ぶ。明治3年(1870年)に村社に列し、後に敷玉早
御玉神社を合祀。昭和18年(1943年)郷社に列す。現在は社格は無く諸社と称され
ている。なお、旧境内は現在の堤防の外(河川敷には奈良平安時代の遺跡が包含
されている)にあり、大正13年(1924年)、鳴瀬川河川改修に伴い現境内(旧別当寺
跡)に移転し今日に至る。
若宮八幡神社の御祭神
・主祭神 ○応神天皇(誉田別尊/ホムダワケノミコト)、○仁徳天皇(大鷦鷯尊/オオサザキノミコト)
○神功皇后(息長帯比売命/オキナガタラシヒメノミコト)
・配祭神 ○建御名方命(タケミナカタノカミ)、 ○木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)
○武内宿禰命(タケノウチノスクネノミコト)
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● 境 内 社 ●
・左から順に高倉招魂社、神明社、稲荷明神社。
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● 蘆 穂 山 (石 神) ●