御 由 緒
・鎮座の年月は不明だが、この地は古くから多賀城の附属寺院の境内であり、封内風土記
によれば、陸奥国司・多賀城主が江州(ゴウシュウ/近江国)の多賀神社(多賀大社)を勧請した
のが起源とされ、延喜の制国弊小社に列せられる。日本後紀には、桓武天皇の延暦15年
(796年)10月己卯、従五以下を授け奉るとある。朝野群載(チョウヤグンサイ)には、「堀河天皇
の康和5年(1103年)6月、・・・坐陸奥國多加神云々。社司等依過穢神事崇給、遣使科中祓
可令、祓清奉仕事宮主従五位下行少祐卜部宿禰兼良、中臣従五位上行権少副大中臣輔清」
とあり、当時の朝野(朝廷と民間)の崇敬をうけた社である。明治5年村社に列せられる。
明治41年10月、大字留ケ谷字中道の神明社、明治44年5月、大字東田中字志引の千引神社
及び大宇留ケ谷字影屋敷の天神社を合祀。昭和40年、境内一円が国の特別史跡に指定され
数年にわたり発掘調査が進められ、また、史跡公園となったため、多賀城廃寺跡東塔基壇
上に鎮座した神殿とその他の施設を、隣接の地に移築して神霊を安鎮した。
・社殿の老朽のため再建、平成13年4月15日に神明造りの社殿が完成する。
御 祭 神
○ 伊 弉 諾 尊(イザナギノミコト)、 ○ 伊 弉 冉 尊(イザナミノミコト)
・天照皇大神、 ・久那斗神(クナドノカミ/岐神)、 ・菅原道真
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● 多賀城廃寺跡から見る多賀神社 ●
[ 多 賀 城 廃 寺 ]
・多賀城の南東約1kmの高崎地区の低丘陵上に、通称、多賀城廃寺と称される多賀城付属
の寺院跡がある。寺院の創建は多賀城と同時期とされ、塔・金堂・講堂・経蔵・鐘楼や
僧坊などの建物からなる壮大なもので、順調な東北統制を願って建設されたと考えられ
る。遺構から考察すると、主要な建物配置が大宰府の付属寺院である観世音寺と類似して
おり、これを手本にして建てられたとされる。また、昭和58年に山王遺跡から「観音寺」
と書かれた墨書土器が発見されたことから、この寺院が観音寺、または観世音寺という
名称であったと考えられている。