延喜式内名神大社 桃生郡

 田 束 山たづかねさん計 仙 麻 大 嶋けせまおおしま 神 社 

田束山
 宮城県本吉郡南三陸町歌津樋の口 地図

 宮城県本吉郡本吉町午王野沢   鎮 座 

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 田 束 山 由 緒 


・標高512メートルの田束山の山頂には、平泉時代末期の「経塚」がある。昭和46年の調査では 

 南北に並ぶ11基を確認(1〜5号は本吉町、他は南三陸町歌津に所在する)した。出土遺物は

 多賀城市(陸奥総社宮から車で10分)の東北歴史資料館に所蔵されている。       

・田束山は古くは「龍峯山(タツガミネヤマ)」とも記され、また奥州平泉対岸の束稲山(タバシネヤマ) 

 に山容が似ていることから名付けられたとの説もある。 開山は不詳であるが、承和年間

 (834〜848年)に天台宗に改宗したという。安元年間(1175〜1177年)、平泉三代・藤原秀衡 

 (フジワラノヒデヒラ)によって再興され、羽黒山・清水寺、田束山・寂光寺、幌羽山・金峰寺、 

 など七堂伽藍の壮麗な構えとなり、新たに70余坊を設け、秀衡の子・本吉四郎高衡が山神

 祭禮を司った。このとき山中には大小の寺院が48あり、坊は旧来のものも併せると100を 

 越えたとされる。                                

・従来は「経塚」のある山頂付近が清水寺、計仙麻大島神社境内が寂光寺跡と考えられてき

 たが、旧歌津町による発掘調査の結果から、山頂部に寺院が立地したとは考え難く、神社

 境内が清水寺で、寂光寺は「井戸の杉」から下の平場のどこかに立地したものと推測され

 る。その後、江戸時代には両寺はともに計仙麻大島神社境内にあった。平泉滅亡後は田束

 山は荒廃するが、後に葛西家の家臣・千葉刑部太輔(チバギョウブノタイフ)が祭祀を司るように 

 なった。天正18年(1590年)、葛西氏も豊臣秀吉の小田原攻略に応ぜざる故を以って所領を

 没収せられ、以後は伊達氏の所管となり明治に及んでいる。明治2年(1234年)神仏合祀の

 禁止により計仙麻大島神社となる。                         

・安永風土記に見える歌津村(現:本吉郡南三陸町歌津)の神社は、三嶋神社(伊里前)、尾崎

 社と深海明神社(泊ヶ浜)、田束山寂光寺観音堂(龍峯山本吉郡総鎮守)、羽黒山清水寺薬師

 堂(本吉郡歌津町鎮守)、母衣羽山金峯寺阿弥陀堂(本吉郡総郡鎮守)の他、若宮八幡社や荒

 澤不動堂など併せて16社が記載されており、神仏の区別なく全て神社としている点が特徴

 的である。近代に入り神仏分離が推し進められた結果、それまで本吉郡の鎮守とされてい

 た田束三峯職の権威は否定され、本尊はそれぞれ細浦、伊里前、小泉の別当宅に降りるこ

 とになり、明治6年には新たな国家神道にもとづく「計仙麻大嶋神社」が郷社に列せられ

 明治18年には四間四方の柾葺き屋根の社殿が寂光寺跡に完成した。後に山火事で焼失し、

 しばらくは石宮となっていたが、昭和34年に現在の社殿が再建される。        

・計仙麻大嶋神社は延喜式内明神大社で、気仙沼の大島に疑定されるが、明治期に突然田束

 山に祭られることになった経緯は良く分かっていない。「古老の伝えによれば、社格決定

 時の事務的行き違いによるもの」と旧歌津町史には記されている。また同時期に、三嶋神

 社(伊里前)、旭岡八幡神社(田の浦)が村社に列せられている。            


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田束山



 計 仙 麻 大 嶋 神 社 

計仙麻大嶋神社



● 社 殿 ●
計仙麻大嶋神社

 御 祭 神 


○瓊瓊杵命(ニニギノミコト)、 ○迦具槌命(カグツチノミコト)、 ○誉田別命(ホンダワケノミコト) 


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計仙麻大嶋神社



計仙麻大嶋神社




神社参拝の記録



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