御 由 緒
・八槻都都古別神社は近津(コトヅ)三社の一社と呼ばれていて、馬場の都都古和気神社
を上之宮、八槻の都都古別神社を中之宮、茨城県大子町下野宮の近津神社を下之宮
としていた。
・八槻都都古別神社は、大和武尊が八溝山の東夷(トウイ)の大将を討った際、守護として
示現した三神の天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神が、建鉾山(表郷村大字三森)
に隠れた時に放った箭(ヤ)の着いた所を箭津幾(ヤツキ)とし、都都古別神社を創建したの
が始まりといわれています。また、大和武尊が八目鳴鏑(ヤツメノナリカブラ)で夷賊(イゾク)を
射たおした時、その矢の落ちた所を矢着(ヤツキ)と称し、都都古別神社を創建したとも
いわます。
・明治4年の太政官府によって、馬場の近津明神が延喜式明神大社の都都古和気神社と
されて国幣中社に列せられた時に、八槻の近津明神が抗議し論争の結果、明治18年に
両社並立という異例の処置によって、八槻の近津明神も国幣中社に列せられた。
御 祭 神
○ 味 秬 高 彦 根 命 (アジスキタカヒコネノミコト)、 ○ 大 和 武 尊 (ヤマトタケルノミコト)
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