御 由 緒
・宝亀11年(780年)、伊治公呰麻呂(コレハリノキミアザマロ)は、伊治城において鎮守府将軍の紀広純
(キノヒロズミ)らを殺害(宝亀の乱)。一族の紀広安(キノヒロヤス)は当地に逃れて永住する。
・第51代・平城天皇(ヘイゼイテンノウ)の御代(宝亀5年〜弘仁15年)に、神祇官が奉斎する八神殿の
神々を勧請し社殿を建立、当地の産土神とした。天文2年(1533年)に八所大明神の号を賜
る。旧郷社。
・例祭は8月9日、8日夜に前夜祭がある。総勢一千名に及ぶ行列を組み神輿が渡行する。
※陸奥・出羽の蝦夷(エミシ)のうち、朝廷の支配に属するようになったものを俘囚(フシュウ)とい
い、このうち隷属の度合いが低いものを夷俘(イフ)という。伊治公呰麻呂は、陸奥国府に仕
える夷俘の指導者であった。鎮守府将軍の紀広純は出自にこだわることなく呰麻呂を部下
として信用し重用していたが、呰麻呂は広純に心服していなかったと伝えられている。
宝亀の乱で俘囚(フシュウ)軍は多賀城を襲撃し略奪放火をした。
● 本 殿 ●
御 祭 神
〜 八神殿(ハッシンデン/宮中御八神)の神々 〜
・神産日神(カミムスビノカミ)、 ・高御産日神(タカミムスビノカミ)、 ・玉積産日神(タマツメムスビノカミ)
・生産日神(イクムスビノカミ)、 ・足産日神(タルムスビノカミ)、 ・大宮売神(オオミヤノメノカミ)
・御食津神(ミケツノカミ)、 ・事代主神(コトシロヌシノカミ)
※八神殿は、日本の律令制の下で神祇官西院に設けられた、天皇を守護する八神を祭る神殿
で、天皇を守護することで、ひいては国家も守護するとされる。そのためか民間でもこの
八神を祭ることがあった。鎮魂祭では、この八神に大直日神を加えた九神を祭る。古図に
よると、八神殿は各神を祭る社殿がそれぞれ独立しており、神祇官西院の西北に東面した
8つの社殿が南北に並んでいた。南北10丈、東西3丈の朱色の玉垣を三方に廻らし、各殿
内に神体はなく榊が置かれていたという。北から第一殿、第五殿、第八殿の前の3箇所に
鳥居が設けられていた。応仁の乱で焼失してからは宮中では再建されず、江戸時代に吉田
家が吉田神社境内に、白川家が邸内にそれぞれ八神殿を創建し宮中の八神殿の代替として
いた。明治維新により神祇官が再興され、明治2年(1869年)に神祇官の神殿が創建されて
遷座祭が行われた。この際、八神殿の八神だけでなく、天神地祇と歴代の天皇の霊も祭っ
た。それまで歴代の天皇の霊は黒戸で仏式で祀られていたが、これに伴い黒戸は廃止され
た。明治5年9月、神祇官は宣教のみを行うこととなり、八神殿は神祇官から宮中へ遷座
歴代天皇の霊は宮中の皇霊殿へ移された。同年10月、八神殿の八神を天神地祇に合祀し、
「八神殿」の名称を廃し「神殿」に改称した。神殿は皇居の宮中三殿の一つである。また
八神のうち大宮売神については神祇官西院の故地に大宮売神を祭る小祠が作られている。
※八神殿は「延喜式神名帳」に「御巫祭神八座」と記載され、大社に列している。