御 由 緒
・鎮座地の吉岡は、古くは今村とも柴崎上の原とも云った。この社は奥州信夫(福島)の領主
飯坂右近大夫宗康の氏神であったが、後に宮城郡国分松森に移す。永禄(1558〜1569年)の
頃、黒川氏が鎌倉より本郡に移住し、下草村(鶴巣)の鶴楯城に入るに及び、社を下草村に
遷宮して祭るが、後に滅亡する。元和2年(1616年)、伊達宗晴(正宗の三男)が今村吉岡城
(大和町吉岡)に移り、元和4年(1618年)3月、社を今の地に遷宮する。寛永11年(1634年)
7月、玄米15石ならびに諸神具を奉納、8月15日の祭例には流鏑馬(ヤブサメ)を行い、家士
20人が警固する。この年まで大谷郡11ケ村の鎮守だったが、文化14年(1817年)3月、藩主
の伊達斉宗が当社を参詣、黒川総鎮守八幡宮の神額を掲げ、宮殿の修繕費として金1500疋
銭50000疋、酒3樽を供え尊信の誠を捧げて郡内の総鎮守とした。嘉永3年には藩主・慶邦
が先祖伝来の軍旗を奉納するなど、藩主・地頭をはじめ一般庶民の崇敬が篤かった。明治
5年3月には村社に列し、明治40年3月には幣帛共進社に指定された。明治41年、町内の
秋葉神社(祭神:迦具土神)と天神社(祭神:菅原道真)を合祀。
・昭和28年3月21日、宮城県重要文化財に指定されたが、昭和63年(1987年)8月13日落雷で
焼失。現在の社殿は平成元年9月14日再建された。
御 祭 神
○ 応 神 天 皇(オウジンテンノウ) ○
・大 歳 神、 ・事 代 主 神、 ・保 食 神、 ・竈 神
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例 祭
・ 1月 1日 歳旦祭 ・ 9月15日 秋季大祭(流鏑馬、等)
・ 1月14日 どんと祭り ・11月15日 七五三祝祭
・ 4月14日 春季大祭 ・12月14日 島田あめ祭り
・ 7月31日 夏越大祓式(輪くぐり)
[ 12月14日 島田あめ祭り ]
・ある年の暮れの12月14日、吉岡八幡神社の神主がたまたま道で見かけた高島田姿の美しい
花嫁に魂をうばわれ、恋慕の情に耐えがたく病の床に伏してしまう。そこで村人は心配し
て寄合い、島田髷形の飴を白酒屋に造らせ神社に奉納し、神主の快気を祈ることにした。
すると、たちまちのうちに鬱病は快気した。そこで神主は、12月14日を「縁むすび」の
例祭日として神事を催したのが、この飴祭りのはじまりだという。
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● 本 殿 ●
● 境内社 春日神社 ●
○ 御祭神:武 甕 槌 神(タケミカヅチノカミ) ○
配 祀:経 津 主 神(フツヌシノカミ)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
萬幡姫命(ヨロヅハタヒメノミコト)
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八 大 龍 王 社
宮城県黒川郡大和町吉岡南城内大堤 鎮座
御 由 緒
・元和(ゲンナ)2年(1616年)、仙台藩主伊達正宗公の三男・宗清(ムネキヨ)公が、ここより東側の
丘陵地に吉岡城を築城した。当時のこの場所は湿地であって、宗清公は船首に龍頭が付い
た舟を浮かべて舟遊びに興じられていたという。宝暦7年(1757年)、但木土佐顕行(タダキト
サアキユキ)公が岩手県大東町から吉岡に転封(テンポウ)となる。仙台藩の要職にあった公は家臣
達に武術を奨励し、特に水練の稽古場と馬洗い場のために、大堤(大きな池)を造ったと言
われている。大堤は大工事であったため、当時の風習では人柱を建て工事の安全を祈るこ
とであったが、公は八大龍王神を大堤の守護神として祠(ホコラ)を建立し、御神体を鎮座さ
せた。八大龍王神が人々の記憶から薄れようとしていた明治31年(1898年)、大堤で悲惨な
事故が起こり、当時の管理人の夫人が毎日供養していた時、夫人の息子が突如重体になり
回復しないことから祈祷してもらうと、八大龍王神の事であると知り、大堤の守護神であ
る八大龍神の由来を改めて想起させ、祭典の機運を促進させた。昭和初期、大堤と縁が深
い但木家の旧家臣の子孫達が青年団と一体となり、大堤の改修と共に八大龍王神の祠を移
し、常時参拝をできるようにした。祭典は宵祭(ヨイマツ)りとして灯篭を流し、八大龍王神へ
の敬神崇拝(ケイシンスウハイ)と精霊を慰めている。
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