蔵 王 国 定 公 園


 蔵 王 連 峰ざおうれんぽう 

蔵王連峰・白石市から撮影:不忘山



・蔵王とは奥羽山脈の一部を構成する連峰(蔵王連峰)のことで、山形県と宮城県の県境に 

 位置し、雁戸山(ガントサン=1,485m)、三宝荒神山(サンポウコウジンサン=1,703m)、地蔵山(1,736m) 

 熊野岳(1,841m)、刈田岳(カッタダケ/1,758m)、杉ヶ峰(1,745m)、屏風岳(ビョウブダケ=1,817m)

 不忘山(フボウサン/御前岳・ゴセンダケ=1,705m)等の峰々のこと。              

・蔵王連峰の主峰は山形県側に位置する熊野岳で、奈良時代の和銅元年(708年)に熊野神社 

 が草創、後に蔵王山神社となる。(参照:熊野神社/蔵王山神社と瀧山の蔵王修験)    

・山形側からは地蔵山の山頂までロープウェイが整備され、地蔵山頂駅から、約200mの標高

 約1,660mの高地に鎮座する地蔵尊に参拝ができます。この地蔵尊は、安永4年(1775年)に

 建立された高さ約3mの坐像で、「子安地蔵」「遭難供養の地蔵」「災難よけ地蔵」とい 

 われ、遭難したときに地蔵尊から光が射したとか、霧で方向を見失ったとき、地蔵尊まで

 一直線に霧が晴れたとという話がある。                      

・蔵王のシンボルである「お釜」や「新噴気口」が見られるのは宮城県側で、また、蔵王は

 活火山であるため、その恩恵である温泉が両県の裾野に数多く存在し、スキー場も多く設

 置されている。                                 

・宮城県の白石と七ヶ宿に位置する不忘山(御前岳)の山頂付近には、第2次世界大戦末期

 の1945(昭和20年)年3月10日、東京大空襲を終えた米軍のB29爆撃機3機が相次いで墜

 落した。1961年、共に戦争の被害者であるとの思いから、慰霊と人類の平和を願い「不忘

 の碑」が建立されている。                       ・・・  


・蔵王のお釜は1182年の噴火によりできて、1820年の鳴動で水が溜まり始めたといわれてい

 ます。この神秘的なエメラルドグリーンの湖水が刻々と変化するため五色沼という別名も

 あり、昭和43年の測深によると最大深度27.6m、平均深度17.8m、周囲1,080m、東西径325m

 南北径335mという広さで、湖の水は強い酸性のため生物は生息せず、水温は表面から10数

 メートルの深度で摂氏2度まで下がり、その深度を増すと温度が高くなるという特殊双温

 水層となる世界でも例のない湖といわれる。               ・・・  


お釜とご来光




 
・標高1,758mの刈田岳山頂には「刈田嶺神社」が鎮座します。白鳳8年(680年)不忘山(刈田

 岳を詠む歌枕)に権現社(後の刈田嶺神社)が草創。朱鳥4年(690年)4月8日、役の行者小角

 が刈田嶺神社に金剛蔵王大権現を勧請する。これが蔵王の名の起源になり、中世の修験道

 によって刈田岳は蔵王岳と呼び変えられる。明治5年に水分神社(ミクマリ)と改め、明治8年

 には再び刈田嶺神社と称するようになった。               ・・・  

刈田岳



刈田嶺より北を望む



刈田嶺神社・奥宮



 刈 田 嶺かったみね 神 社 

刈田嶺神社・奥宮
 
 御 祭 神 


○ 天 之 水 分 神(アメノミクマリノカミ)、 ○ 国 之 水 分 神(クニノミクマリノカミ)


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 由 緒 


・開山せしは何時頃なりしか不明なれど、第2代緩靖天皇(スイゼイテンノウ/欠史八代)を奉祀せし

 こと地方伝説等に徴しても明なり。その後、修験道なるもの現れ、其の一人として有名な

 る役の行者小角、大和国吉野山に鎮座せる蔵王権現、即ち、天之水分神、国之水分神二柱

 の御神霊を不忘山に奉還し山名をも蔵王山と改むるに至れり。この時代は仏教の最も盛ん

 なる時にして、畏くも天皇御自身三宝の奴と称し行基(ギョウキ)出でて、神仏習合説を唱い 

 空海、伝教の二僧出づるに及び本地垂跡説を説きし頃なりしかば、何時しか神社名も忘れ

 蔵王大権現と称するに至れり。                          

・平安朝の末頃は、阿部氏当社を己が氏神とし神殿をも改築せしことあり。降って戦国時代

 に至りては、当地方は出羽領に属し尊崇最も厚く、水下50町歩を神田に寄進し、家臣甘糟

 氏をして守護せしめたり。その後、伊達氏代わりて陸奥に覇を握るや、己が守護神として

 家臣片倉小十郎をして守護せしめ、伊勢神宮の例に倣い21年毎に御改築の例を開き、金華

 山を鬼門除け、当社を病門除けとして共に青葉城を守らしめたり。          

・明治5年4月、太政官布達により神仏混交相成らざる旨布達せられてより、水分神社と称

 せしが、同8年に旧神社名を襲いて刈田嶺神社と改名、郷社に列せられ今日に及べり。 



 蔵王の歴史 

 
 ・ 110年       日本武尊の臣、吉備多賀由が温泉発見と伝える。「酢川神社草創」
 ・ 680年 白鳳8年  不忘山に権現社草創。後の刈田嶺神社。(※1)          
 ・ 690年 朱鳥4年  4月8日、役の行者小角が刈田嶺に金剛蔵王大権現勧請。「蔵王山」
           の名の起源。(※2)                          
   < 奈良時代 >                                
 ・ 708年 和銅元年 熊野岳に「熊野神社」を草創。後の蔵王山神社。         
 ・ 773年 宝亀4年  10月20日、朝廷、刈田嶺神社に神封2戸。            

   < 平安時代 >                                                                
 ・ 844年 承和11年 朝廷、刈田嶺神社に従5位下。                 
 ・ 851年 仁寿元年 慈覚大師が瀧山(リュウザン)を開山。仁寿2年、瀧山神社創立。   
           以降、蔵王山神社とは、瀧山(本宮)、酢川神社(口ノ宮)、熊野神社
           (離宮)の三社一宮となる。                   
 ・ 860年 貞観2年 慈覚大師、山寺立石寺開山。                 
 ・ 869年 貞観11年 朝廷、刈田神社に従4位下。                  
 ・ 873年 貞観15年 6月26日 朝廷、酢川神社に従5位下。(三代実録)         

   < 鎌倉時代 >                                                  
 ・1227年 嘉禄3年 蔵王山鳴動。石降ること雨の如し。(北条九代記)         
 ・1251年 建長3年 北条時頼、瀧山三百坊の腐敗、横暴を怒り、瀧山閉山。      
        
   < 江戸時代 >                                
 ・1620年 元和6年 神池ことごとく焼け震動雷が如し。以来、神池を「お釜」という。
 ・1648年 慶安元年  徳川家光、蔵王大権現に御朱印地3石8斗。            
 ・1689年 元禄2年 俳聖松尾芭蕉山寺に一泊す。「閑かさや岩にしみいる蝉の声」   
 ・1694年 元禄7年 5月6日、噴火、山頂神宮焼失。                 
 ・1775年 安永4年 8月、妙見寺久兵衛ほか、蔵王地蔵尊建立。「子安地蔵」     
 ・1794年 寛政6年 8月29日、噴火、山頂神宮焼失。「蔵王山」の名で記録。     
 ・1809年 文化6年 11月23日、噴火、硫黄流れ阿武隈の魚死す。          
 ・1820年 文政3年 12月24日、鳴動、火口に水が溜まり始めたという。       
 ・1830年 天保元年  噴火、同2年も。同3〜4年、火口湖ができて、馬見ケ崎川に硫黄水 
           が流れ出る。                        
 ・1928年 昭和3年 大正7年以来の噴煙止み、休火山となる。            

 ※1=白鳳(ハクホウ)は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(日本
    書紀に現れない元号)で、「二中歴」「海東諸国記」では661年が元年、「麗気記 
    私抄」等では672年が元年。                        
 ※2=朱鳥(シュチョウ)は、飛鳥時代における日本の元号のひとつ。686年が元年。     


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〜 熊野神社(蔵王山神社)と瀧山の蔵王修験 〜


・690年、役小角が吉野の「金峯山寺」から金剛蔵王大権現を刈田岳山頂に勧請し、708年に

 山形側の熊野岳に「熊野神社」がに建立されると、熊野岳を中心する一帯は「蔵王」と呼

 ばれる修験道の山となった。蔵王は、熊野修験の信者からは、吉野・大峰山に対して「東

 のお山」と呼ばれ、後年には熊野権現と白山権現も勧請されている。         

・712年、山形市下宝沢に「三乗院」が作られ山岳修験の拠点となり、承和年間中(834年〜

 847年)に「酢川神社」が作られ、851年に慈覚大師が「瀧山(リュウザン)」を開山した。大師

 は瀧山山頂(1362m)に社を作られ薬師如来を祭り、瀧山大権現と称し、山腹に一宇を建て

 「医王山・瀧山寺」と名付けた。以降、瀧山(本宮)、酢川神社(口ノ宮)、熊野岳の熊野神

 社(離宮)の三社一宮となった。後に、瀧山の周辺には300坊と呼ばれるほどの宿坊が立ち 

 並び、蔵王修験の中心となった。瀧山に関しては蔵王権現と切り離し、瀧山信仰であった

 とする論もあるが、現在も続いている瀧山の例大祭は、蔵王山神社と瀧山閉山後に遷座し

 た瀧山神社が合同で行っている。1952年(昭和27年)熊野神社は蔵王山神社へと改名する。

・蔵王山神社の祭神は、須佐之男命で、酢川温泉神社の祭神は、大国主命、少彦名命、須佐

 之男命、軻遇突智神とされる。                          



刈田嶺神社・奥宮・ご来光



刈田岳山頂



朝日連峰



刈田嶺神社・奥宮の雪景色
・この雪の刈田嶺神社の写真は「 大河原地方振興事務所 」の[ みやぎ蔵王三十六景 ]より

 お借りしました。                           ・・・ 




蔵王地図




 刈 田 嶺かったみね 神 社 (里 宮) 

刈田嶺神社・里宮

 宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉仲町1 鎮 座 地図





刈田嶺神社・里宮



刈田嶺神社・里宮



● 拝 殿 ●
刈田嶺神社・里宮の拝殿

 御 由 緒 


・蔵王刈田岳山頂にある刈田嶺神社の里宮とし、毎年10月に奥宮からご神体を下ろして

 4月に奥宮に上げていたという。また、明治の廃仏毀釈以前には「蔵王権現御旅宮」

 別名「別当金峯山蔵王寺」とも呼ばれていた。明治5年に水分神社と改め、同8年に

 に刈田嶺神社と称するようになった。                      

・御祭神は天之水分神、国之水分神で、明治5年に水分神社と改め、同8年に刈田嶺  

 神社と称するようになった。                          


 御 祭 神 


○ 天 之 水 分 神(アメノミクマリノカミ)、 ○ 国 之 水 分 神(クニノミクマリノカミ)


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刈田嶺神社・里宮



● 本 殿 ●
刈田嶺神社・里宮の本殿




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